SNK >> デジタルアーカイブ >> 初手物語
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二代佐太夫 | ||
半井元仰さんなのち、石田ち云うお城内の馬廻り役の家ば継ぎなさったけん、二代佐太 夫さんな、小河の厄介から兄さんの石田の厄介にかわっとんなさったげな。 この石田の子孫(瑞穂)な、明冶になって.久留米市長さんしとんなさって.その和子 (わこ、息子)さんな三井鉱山の副社長しとんなさったたい。 石田ば継ぎなさったけん、半井の絶ゆるち云うて、二代佐太夫さんのお子さんの文郁さ んち云うお方に半井ばつがせなさったげな。文郁さんな、両郡の方の乙吉村ち云うとこで、 代々開業しとんなさったげなが、明治頃また久留米さんその跡が帰って来なさって、やっ ば大方お医者さんで、そこの鎗水の聖風園療養所も半井さんの開きなさったったい。 文郁さんの半井ばつぎなさったもんじゃけん、真藤の空になって仕舞うけん、垂井から 良右衛門さんばご養子しなさったたい。 二代左太夫さんも奥さんじゃなしお世話やきじゃったげな。通町のどこかで町家の出 じゃったけんか、経済がなかなか上手じゃったふうで、少しづつでん、溜まって行きよった らしうして、碌頂かんごつなってんそげん暮しに困りもしなさらじゃった模様じゃん、半井 からどっだけか財産も頂いとんなさったふうで。このお世話やきの年忌したとき、里方ば探 し求めて、ようよう通町の裏の順光寺の辺りに住んであっとのわかって、お仏さんのお配り 物の出けたち、ばばさん達の話しょんなさった。 お寺変りもしてなかったけん、浄顕寺の坊んさんばこの人の何かのときゃ、ずうっと来て頂 きよったし、お盆お正月も、お包みば大正の中頃まではずうっと欠かさじゃったばってん、 うちが首ん廻らんごつなったときやめて仕舞うてそりぎりなったつたい。国分の隈山のお墓 の上ん段の一番南の端の浄華室ちあるとがこの人のお墓たい。お世話やきじゃけん浄華院ち 云わんで室ちしてあるとたい。初手はお墓のお戒名見ると、その、身分の分かりよったたい。 二代佐太夫さんちゃ面白かとこもあって、あの大っか野面の菱餅立てたごたる石碑は、自 分で高艮内の奥の方で探して引き出させなさったげな。穴も堀って、自分の入って見て、こっ でよかち云うとこで、井戸側のごつ石で中ば積み上げて、砂ば填めて、ちぁーんと、いつ死 んだっちゃよかごつ用意してあったげな。 犬がおったふうで、犬が病気したじゃろ、そっでその手当ばどうしたがよかか兄さんがお医 者さんじゃったけん、聞き合わせなさったらしゅうして、石田仙次郎さんから犬の手当ば詳 しう書いてやんなさった返事ん手紙のうちの火事のあとまで残っとりよった。 二代佐太夫さんな若か頃は通称は佐衛喜、諱は泰秀ち云よんなさったげな。趣味は和歌てん、 俳句てんじゃったふうたい。昔ゃそげなこつが、一体に世間の楽しみじゃったごたるの。石原 小兵衛さんてん太田九右衛門さん方と、そげな方面でおつきあいのあった模様じゃん。 佐太夫さんな、良右衛門さんのご養子おいった翌年の享和二年に、五十二でおかくれたげなたい。 |