SNK >> デジタルアーカイブ >> 初手物語
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病 気 | ||
あたしゃ胃腸の悪うなったりで、何時でん青すたんのごたる顔しとるし、大正六年にゃ流産して、 そりからが身体の弱わって、九年に一番しまえの女の子の生れて、千力、ち名ば付けたばってん 直ぐ死んで、そん時もあたしもまた心臓ん止まって、又息吹き返すち云うごたるこつじっゃたたい。 紺屋町の渡辺病院にそん時も久しう入院しとったたい。 貧乏にゃなるし、ここで自分が死んだなら子供三人な、ほんにどげんどんなるこつじゃりち、そ りばっかり考えよったけん悪るかった時、先生に「子供んおりますけん、どげんしてでん助けて おすけられ」ち、一所懸命頼うだたい。先生のほんにおかしかち思いなさろちゃ思うばってん。 おかげでそん時もどうにか助かったばってん、財産な無うなった上に、そげなこつ続きで散々じゃったたい。 そののち、そげな風で、胃腸の悪るなっていっちょんようならんもん、岡野ん伯母さんのあげん 悪うあんなさった時、行徳病院に入院しとんなさったときの食事療法の様子ば岡野に聞いたたい。 岡野の伯父っつぁん方(がた)も心配して、入院どんさせてやらにゃなるめかち云よんなさる時 じゃったげな。 詳しうそん時の食事の様子知らせて頂いたけん、あたしもそりば参考にして食べもん作ったたい。 トロクスンば、お砂糖も塩も使わんで、柔う煮たつの皮ば取ったつの、ようありょってよかった ふうじゃったけん、ずうっとそげんして食べよったりゃ、だんだん下痢の止まって来たたい。 そののち人んそげんある話聞くと、いつでん、このトロクスンのこつ教ゆっと、みんなよかち云 うこつじゃった。そっでようよう快うなって、その後がいよいよ貧乏も、こり以上の貧乏はなか ろち思うごつなったりゃ、気の引っからがったつじゃり、身体のだんだん強よなって来たたい。 そっでん今から考ゆるとおかしかごたるもん。屋敷内にみかんも柿も枇杷、梅も生り放題に生りょっ とば、どけんか売るち云う算段はようつけきらんとじゃん。子供の食ぶる果物類にゃ、時々の物 の生って事欠かんばってん、生り腐れてん、落つるにまかせて、人のほんに笑よっつろたい。あ たしゃ畑作るとは好いとったばってん、身体は弱うなるし、お父っちゃまは全然そげなこつに気 はなし、「俺ぁ、百姓てん何てんな好かん」ち云うとんなさるもん。 屋敷ゃ草ぼうぼうでくさい、よか畑んとこは人にどん作らせて…。渋柿てんな商売人の来て、毎 年ちぎって行くばってん、向うの云い値じゃし、梅だん大っかつ、小まかつ十本位ゃ生るばって ん、どげん生っとろと、全部で一円じゃった。一円ちゃおおかた明治中頃の値段じゃっつろが、 うちじゃ大正末頃まで一円据置きたい。 筍だけが時価じゃったけん大正末頃、高かときゃ、一斤八銭にもなりょったけん、毎朝弥蔵さん の、堀って買うて行きござったけん、筍の時節にゃ小使に不白由せんで済みよったたい。 |