●所在地
福岡県三井郡大刀洗町大字
●内容
現在の恵利堰は、昭和40年、国の事業によって、魚の通り道を備えた可動堰として完成した。
正徳2年(1712)に築かれた旧恵利堰は、その後の改築によって上幅306m、長さ252、下幅が220mの規模となり、この面積が、平らな伏石と良質の粘土で固められていました。
昔、筑後側北岸の地域は、肥沃な土地でありながら水利に恵まれず、しばしば干害に見舞われ、飢饉が頻発し、人も村も疲弊し離散する者まで出るありさまであった。
鏡村(北野町)の庄屋高山右衛門は、村人の苦しみを救うため、筑後川を堰き止め、田に水を引こうと決心し、同志の秋山新左衛門、鹿毛甚左衛門、、中垣清右衛門と堅く誓い合って、関係する村々とともに久留米藩に嘆願して工事着工の許可を得た。
草野又六を普請総裁判(工事総監督)として、はじまった工事は、川幅広く、水量多く、深く、急流なため、言葉にできないほどの困難をきわめた。草野又六は困り果てていたが、母の励ましにより、奮然と起ちあがったエピソードが残っている。
工事は、まずは古船数十隻に大小の石を満載し、これを船とともに水底に沈めて堰の基礎をつくることができた。さらに、まわりの山から数十万の大石を運び、小石は俵につめて50万俵を用意し、正徳2年2月末日、3500人の人夫をことごとく現場に集め、用意した石をいっせいに川底に沈めた。一投一沈、水狂い波怒り、そのありさまは前代未聞の壮観であったと伝えられる。
こうして不完全ながらも堰き止め工事はできあがり、川水が新溝に入り、各村々の水田を潤すこととなった。その後、竹野郡早田村庄屋丸林善左衛門の監禁事件などを経ながらも船通しの開削も完成した。
機械力のない時代、人力のみでのこれほど大規模な堰が造られた事は、驚くべきことである。
現在、正徳年間当時姿をとどめるものは少ないが、先人の遺徳を引き継ぎ改修された恵利堰の灌漑面積は約3000ヘクタールに及ぶ。
(説明欄)大刀洗町役場のホームページ
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