わたしには、ふたつのふるさとがある。生まれた福岡県の矢部村と育った北九州市である。東京には半世紀も住んだことになるが、この県の両端にある土地がらが、わたしの中にいまもって息づいているのである。
渓流公園で発行されている |
矢部村は有明海にそそぐ矢部川の上流にあって、大分と熊本を隣にした県境の村である。戸数は七百戸足らずだが、季節の石楠花が美しく昨秋開かれた杣の里渓流公園が、村おこしの時流の中で話題になっている。つい最近そこにあるフランス料理店がNHKで紹介されたが、そうした思いもかけない楽しさを持ち合わせている村である。
もともと矢部村は古く、日本書紀には八女津媛(ひめ)伝説が記載されている。南北朝時代には鎮西の要地とされ、将軍良成親王の陵墓があり、村民はその時代の公卿、武人の末裔(えい)といわれている。
面白いことに、わたしと同姓の家が圧倒的に多い。詩人校長(現教育長)の椎窓猛さんの学校を訪ねたとき、剣道部の十数人のうち、ひとりを除いて全員が「栗原」と胴着に名前を書いているのを見て驚いたことがある。
わたしは三歳のとき、この村を出ている。事業に蹉跌して去った父を追っての離村であった。それだけに村の記憶はさだかでない。
しかし、何がなしにわたしの耳底に、いつも水の鳴る音があった。川の流れの近いところに生家があったのではないかと思い続けた。
十五歳の頃か、北九州に住んでいたわたしは、ひとりでふるさとの村を訪ねたことがあった。いまでも大藤で知られている黒木まで軌道に乗り、それから木材運搬の戻り馬車に乗せてもらった。奇岩の岩辺や、聳え立つ日向神(ひゅうがみ)沿いの峡谷の道を抜けて、いまはダムの湖底となっている町村の道をたどりながら、桃源郷にでも踏み込んだような感動を覚えたものであった。
師範学校の生徒の頃、ガリ版刷りの同人誌を出し、それに「八女に行けば」と詩らしいものを発表している。望郷の想いがたどたどしくはあれ述べられているのも、今は懐かしい。
矢部を去って大牟田から長崎の島へ、そして北九州へと移った。小学一年生のとき、三度も転校して、やっと折尾の町に定住することになった。
家の前を遠賀川から分かれた堀川が流れていた。石炭を積んだ五平太船が続き、夜ともなると旧八幡製鉄所の、あかあかと空をこがす溶鉱炉の火照りが見えた。その焔が一万数千人のストライキで消えた大正九年、小学生のわたしは、代用教員で担任となった俳人の田中桂香先生にめぐり合った。一年限りの担任であったが、もともとの獣医に戻った先生にも師事した。その影響から詩歌、文学への興味も覚え、小学校時代から投稿に夢中となり、郷土の詩人北原白秋に憧れ、吉田紘一郎のセンチメンタリズムに陶酔した。
貧しくて行きどころがなく、小倉の師範学校に補欠で拾ってもらった。その頃は円本(定価一円)の内外文学全集や岩波文庫本が出版され、ろくに理解もしないまま片っ端から乱読した。
北九州が労働者の街であっただけに、左翼文学にも刺激されたが、しょせん師範生として鋳型化されて行く自分に反発するだけで終わってしまった。卒業後、遠賀郡の浅木と、八幡の山ノロで短い教員生活を送った。初任給四十六円。「酒は涙か、溜息か」が流行していた。不況にあえぐ街が息苦しく、わたしは第二のふるさとをも去った。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」(室生犀星)であろう。わたしにとって離れて見た北九州は、矢部がどちらかといえば情緒的な思慕であるのに対して、幼な友達も現存するせいか、ここで生きて来たという実感が強い。
それにしても、わたしの中では、成り立ちの違うふたつのふるさとが違和感なしに共存している。
ところで、幸運にもわたしはふたつのふるさとの合唱組曲を作詩する機会に恵まれ、團伊玖磨氏の作曲で世に送っている。
「北九州」では、この街の時代的都市成立の歴史を讃え、父祖の街造りを、その子の父母が継承し、さらに孫の子ども達が未来に向かう―という伝承の確かさを期待した。そして「ふるさとよ/永久(とわ)に奢(おご)らず/病むことなかれ」と願った。海を埋め、山を削り、営々として広がる市勢の歩みにうなずきながらも、この街を未だに本籍とする年長者の慮(おもんばか)りを歌に托さずにはおれなかった。それは現在も変わらない、わたしの心情である。
一方、矢部は、過疎の波をかぶりながらも、実体は緑また緑の、山河の静まりと美しさを保っている。
そこの若い人達に、村の辺境に残された小村と思うな。往古の、われ等の祖先は、九州への限りない夢をここから送ろうとしたではないか―と、話しかけたことがあった。昔語りが実証する地勢の優位性と、一時的にせよ西国の拠点とされた事実を想起して貰いたかったのである。
わたしの目には、この村が実に新鮮に見える。二十世紀の時の流れが、いい意味でここでは停止しているのである。激動期に日本の都市が受けた公害的現象や、病弊、社会悪とおぼしきものは、ほとんど見当たらない。過疎感はあるにせよ、本来の日本の山村の姿は、こうしたものではないだろうか。
組曲「矢部川」の冒頭部で「谷の瀬に生まれし水は 岩走り/矢部よ 山峡(かい)/この水の 明日は何処ぞ」とした。
それは矢部川の流れの中に見出した、わたし自身の姿であり、村自体の明日への正念場を暗示したものでもあった。
読売新聞より
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