歴 史 の 数 々
如意輪観音立像 (横隈)県指定彫刻、如意輪寺のご本尊。
如意輪寺のご本尊である。
如意輪観音立像の説明板には、次のような記載がある。
如意輪寺の本堂に安置されている本像は、檜の1材から本体をつくりあげた約103センチメートルの立像である。高い髪髻を結ったおだやかな顔をやや右に傾け、左右3本づつの六臂はそれぞれやわらかく印を結んでいる。おそらく鎌倉期を下らない時代に造像されたもの
と考えられている。
如意輪観音は坐像が一般的であるが、立像としては全国でも特異な例である。
(説明欄)説明版から抜粋。
西島大日如来像 (三沢)市指定彫刻、鎌倉末期に造られた石仏。
「大日さん」いい伝えてきたこの石仏は彫刻の左右に次の銘文が
ある。
      敬白元享2年壬戌10月 日
    大願主藤七并興七施主
元享2年(1322)鎌倉末期の作である。温容豊かに慈悲に満ちた顔は、よく鎌倉期の特徴からうかがわれる。
現在地は道路改修により以前の地よりすこし西南に移転している。碑の右肩に勢至菩薩の種子(梵字)があり左肩は石面が欠けて消滅しているが、観音菩薩の種子が刻まれていたのではないかと考えられ、阿弥陀三尊の碑であるとの説もある。
(説明欄)説明版から抜粋。
上岩田五重石塔 (上岩田)市指定考古、鎌倉時代に造られた五重塔。老松神社内。

この石塔は、鎌倉時代の末期元徳2年(1330)岩田庄と幸福息災延命、安穏太平、増長福寿を記念して造立された五重塔である。
石塔は、地覆、基礎、塔身、軸部、相輪の5部分からなり鎌倉様式の間層式石塔の代表的なもので簡素な容姿を備えている。
地覆は地下に埋もれている。
(説明欄)説明板から抜粋。

大原古戦場碑 (小郡)正平14年(1359年)の古戦場碑。
小郡市役所東隣に東町公園があり、その正面高台に「大原古戦場碑」と刻んだ大きな自然石の記念碑がある。
正平14年(1359)8月征西将軍懐良親王を奉じた菊池武光の大軍4万と、小弐頼尚の大軍6万が大保原を中心に一大決戦を展開した。
とくに8月7日の一日の戦闘で両軍の戦死者5千4百5十余人、戦傷者を合わせ2万5千余人にも及ぶ激戦であったと伝えられている。
この碑のあたりから西鉄小郡駅前あたりまでの地域を「前伏」というが、これは大原合戦の際、小弐軍が前衛の兵を配置していたとこらから、このような地名が生じたといわれている。
また、この南側の地域は「高見下」と呼んでいるが、これも同様に小弐軍の物見があった場所と思われ、現在は平地になっているが、昭和30年代までは10数メートルの高台になっていた台地の南斜面下に当たることから、この地名も合戦に関係した地名と考えられる。
(。
井上廃寺跡 (井上)白鳳前期の寺院跡。
小郡町大字井上字村囲を中心とする地域、昭和35年3,4月2回の測量調査によって大体方2町の寺域を推定している。民家が密集して建物の遺構はないが地籍図、現存する道路、古瓦の分布範囲等を参考して寺域は推定できる。礎石なども移転されてしまっているが、数種の軒先瓦を出土し、円形垂先瓦(大)1個(完全)方形垂先瓦(半欠)鬼板瓦破片1個が発見されている。本資料は九州の山田寺瓦中最も古式である。
(説明欄)説明板から抜粋。
名馬池月の塚 (八坂)佐々木四郎高綱が源頼朝から賜った名馬の塚。
寿永3年(1184)、源範頼・義経は、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した。義仲は橋を落として、守りを固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。この時、佐々木四郎高綱は、御大将源頼朝より賜った名馬「池月」にまたがり、梶原源太景季と先陣を争った。弓矢を浴びながも、両軍監視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあけた(宇治川の先陣争い)。
名馬「池月」が死亡すると、その遺体をこの塚に葬り「名馬池月塚」と称した。
(説明欄)小郡市史第3巻から抜粋。


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